瞽女の道、今ある道

 

 1964(昭和39)年、前回の東京オリンピックの年。高田瞽女、杉本キクエはひっそりと最後の旅を終えた。盲目の旅芸者、新潟・瞽女。江戸時代から続いた彼女たちが唄う瞽女唄は、高度経済成長の波により、失われようとしていた。

 

 

 

 2014(平成26)年2月の新潟県刈羽村。海岸に原発を抱えるこの小さな村で小竹勇生山さんと待ち合わせた。彼は瞽女唄の継承に尽力する第一人者だ。彼の妻、栄子さんは高田瞽女の唄を唄える数少ない女性だ(栄子さんは晴眼者で、盲目というわけではない)。昨日から降り出した大雪で一面の雪景色。それでも、雪に慣れた豪雪地域に住む人たちの足取りは、別段緩むでもなく黙々としていた。

 

 刈羽中学校の体育館で開かれた「音楽鑑賞教室」。大型ストーブが4台ついていても肌寒い体育館。100人ほどの中学生と近郊から鑑賞に来た人たちの前で、栄子さんが唄う瞽女唄が響いた。

 

 

 

千夜かよても(通っても)会われん時は 

 

ご門扉に文を書く ご門扉に文を書く

 

 

 

 「その光景が目に浮かぶよう。なつかしい。ペシャコンペシャコン三味線を鳴らして歩く瞽女さんの後ろを、子どもの時はまねしながらついて行ったもんだ」音楽鑑賞教室に参加していた女性(84)は目をうるませた。

 

土臭い、切ない歌詞の中に生きる民族性。「門付歌」と呼ばれるこの唄を瞽女たちは玄関先で唄い、報酬を受けていた。私はもういなくなったといわれる「瞽女」と呼ばれる盲目の芸者の影をその歌の中だけでも必死で想像した。

 

 

 

昭和30年代まで瞽女たちは新潟県や東北で旅芸者として生活していた。「瞽女宿」と呼ばれる比較的裕福な家の者が彼女らを手厚くもてなし、彼女たちはお礼に唄い、それを聞きながら宴を催すのが当時の農村での娯楽だった。もちろん、彼女たちにとっては泊めてもらえる宿がいつもあるわけではなく、宿がなければ神社の境内や雨風をしのげるところで野宿をすることもあった。彼女たちの旅は広範囲にわたり、新潟県内に留まらず、東北地方まで旅をすることもあったという。盲目であったことから「目」となる女性を先頭に、お互いの肩に手をおいて縦に連なって歩く姿は日本画や近代写真の題材にもなっている。しかし、高度経済成長の流れと共に、瞽女たちの生活の糧となる娯楽産業は、テレビやラジオに奪われ、みるみる衰退していった。

 

 

 

「最後の瞽女」小林ハルさんが亡くなったのは今から19年前、1995(平成7)年の4月。「胎内やすらぎの家」という県内で唯一の盲人用の老人ホームである。JR羽越線中条駅からタクシーで15分ほど。現在110人の盲老人が生活している。

 

吹雪に近い空模様に、たまらず傘をお借りした。雪が背の高さ以上に積もる雪の中に小林ハルさんの墓はあった。雪に阻まれ近づくこともできなかった。できるだけ近づいてカメラのシャッターを切ったが、服は一瞬で雪まみれになった。

 

 

 

この老人ホームには現在、元瞽女と言われる近藤ナヨさん(93)が暮らしている。14歳で小林ハルさんに弟子入りし、19歳で結婚。2人の子どもが生まれ、その後瞽女として旅をしたかどうかは、彼女の話から聞き取ることはできなかった。瞽女唄ももう忘れた、と言う。

 

「最近は認知症が進んでいて、食べたことも忘れて寝ていることが多いんです」。ナヨさんの世話をするヘルパーの安城(あじろ)さんはそう言ってため息をついた。

 

 

 

新潟の少ない電車を待つ間、瞽女を題材にした映画「ICHI」のことを考えた。先述の小竹勇生山さんが三味線と瞽女唄指導をした。新潟の瞽女を演じる綾瀬はるかさんの演じる瞽女。しんしんと降りつもるこの雪景色によく似合う。しかし、この映画を観たからといって瞽女になりたいという女性は多分もういないし、盲目の瞽女が新しく生まれることはもう二度とないのだろう。失われたものは元通りにはならない現実――。

 

「気づいた時には少しか残っていなかった」小竹勇生山さんはそう言って悔やむ。「しかし、私たちにやれることをやっていくしかない」。唄や芸をはじめとする文化は、「在るとき」は気づかれず「失われようとするとき」はじめてその価値が見出される。消えそうだった瞽女唄の火は、新しく目の見える晴眼者たちの手で生まれ変わろうとしている。